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附属被ばく資料調査解析部では、原子爆弾及び放射線による被災に関する情報の調査ならびにそれに関する資料の収集、整理、保存および解析を行っています。これらの情報と資料の提供を通じて、共同利用・共同研究拠点として放射線関連の学術コミュニティーの幅広い研究の発展に貢献します。
附属被ばく資料調査解析部では、原子爆弾や放射線の被災に関する情報を調査し、それに関する資料の収集、整理、保存と解析を行うこと、また、そういった情報や関連する医学研究(科学研究)を社会へ発信することを主な業務としています。
これらの情報と資料の提供を通じて、共同利用・共同研究拠点の一部門として、放射線医学を始めとするさまざまな分野の学術コミュニティにおいて幅広い研究の発展に貢献するとともに、社会に向けてもその発信を行っていくことを目指しています。
その歴史は研究所内でも古く、またそのルーツの研究部門は文部省(当時)の省令によって設置された珍しいセクションです。特に1967年、1974年に見られる分岐点は、当時の広島での原爆に関する資料の収集や保存への関心の高まり、アメリカに対しての原爆関連資料の返還運動の発展と無関係ではありませんでした。そういった先人たちの原爆の実相解明への探求と原爆の被災を風化させないという願いを、私たちは少しでも引き継いでいきたいと考えます。
1958年4月 | 広島大学に医学部附属原子放射能基礎医学研究施設が設置される(昭和33年文部省令第7号)。 |
1961年4月 | 医学部附属原子放射能基礎医学研究施設が廃止され、原爆放射能医学研究所が設置される(昭和36法律第41号)。この中に解析部のルーツの1つとなる疫学・社会医学部門が設置される。 |
1967年6月 | 研究所内に解析部のルーツである附属原爆医学標本センターが設置される(昭和42年文部省令第11号)。 |
1974年4月 | 附属原爆医学標本センターが附属原爆被災学術資料センターに改称する(昭和49年文部省令第13号)。 |
1994年6月 | 附属原爆被災学術資料センターが附属国際放射線情報センターに改組される(平成6年文部省令第21号)。 |
2002年4月 | 研究所の名称が原爆放射線医科学研究所に改称する(平成14政令第130号)。 |
2010年4月 | 研究所が共同利用・共同研究拠点「放射線影響・医科学研究拠点」として認定される。附属国際放射線情報センターを附属被ばく資料調査解析部に改組される。 |
【企画主旨】
原子爆弾の影響は爆弾が投下されてすぐ終わりとならなかった。
ある意味、被爆地では1945年8月のその日から原爆にまつわるさまざまなことが始まり、そして75年目をそろそろ迎える今でも終わってはいない。1945年8月に日本は確かに戦争を終えた訳だが、被爆地では、この戦争終結による解放の安心や喜びという幸運や空気が、他の地域ほどに人々にもたらされたとも限らなかった。被爆地の人びとは、この、敗戦し、占領された国のなかで、新たな戦い――“ヒロシマ”への挑戦が始まることになったのである。
しかし、被爆地の人びとは実に不屈に生き抜いた。そこには、被災し、被爆した本人たちの底力がまずあった。そして彼らを支え、また、その大元(おおもと)となった原子爆弾の影響そのものを調査研究する人々も多くいた。
広島大学医学部は、そういったものの1つであった。医学部の源流となる広島県立医学専門学校は、1945年8月5日に開校式を行い、そのスタートを切ったため、実態としてはむしろ被災した側でもあった。しかし、そこから被爆者医療に尽力すべく調査研究も進めていった。また、その流れのなかで、広島大学には1958年に原爆放射線医科学研究所の基盤となった研究組織が設立された。
本展示は、広島大学のそういった初期の活動を中心に、当時の様子の一面をお伝えすることを目的としている。
被爆地・広島には、アメリカや日本(文部省、日本学術会議)の調査団がやってきて、そして調査が済むと彼らは帰っていった。その調査団を受け入れ、また広島のその現場に居続けて被爆者とともに歩んだのが、広島の科学者であり、その一部に広島大学があった。
広島平和記念資料館の創立者として著名な長岡省吾は、広島大学の人間として原子野を歩き研究のために被爆石を収集したが、青年であった秀敬氏は、そのそばで同じく調査研究に従事していた。
今回はその際の貴重な、そして大変に緻密に書き込まれたノートおよび関連資料を皆様にご覧いただく。
【企画主旨】
1945年8月の原爆投下直後から、広島では多くの医学者、医者による救護活動が行われた。彼らは、当時としてはまだ全く知られていない放射線被災を受けて傷ついた多くの人々を目の前にして、その原因の究明や治療に力を尽くした。特に、医学者にとって未知の世界であった放射線災害の原因究明は、重く大きな課題となった。そして、そういった医学者の中に、広島大学医学部病理学教室の初代教授となった玉川忠太がいた。この当時、玉川は広島医学専門学校の教授であり、被爆直後の広島の原子野で奔走した科学者の一人であった。
本展示では、昨年8月に確認した広島大学大学院医歯薬保健学研究科分子病理学研究室に所蔵されている玉川忠太資料を中心に*1、原爆放射線医科学研究所所蔵資料なども含め、1945年8月以降の医学研究者たちの取り組みの一端を紹介する。
現在も原爆による身体への影響の実像は明らかではない。しかし、玉川忠太のような当時の広島の医者・医学者の究明への努力がスタートしなければ、被ばくの問題について、現在のレベルほどに今私たちは迫ることはなかったはずである。その原点の意味を改めて問い直す。
【企画主旨】
2017年3月に原爆放射線医科学研究所が受領した鎌田七男名誉教授の資料を中心に、「奇跡の78人」と言われた近距離被爆者(爆心地500m以内の被爆者)について、原医研が1960年代後半に開始した「爆心地追跡調査」、そこから展開した「近距離被爆生存者に関する総合医学的研究」、そしてその被爆者たちを原医研所属時代から現在まで継続して見守ってこられた鎌田先生の足跡を紹介する。この展示を通して、原爆被災後の被爆者の皆様に対して取り組んだ広島大学と原爆放射線医科学研究所の調査研究と鎌田七男先生のご尽力の一端を皆様にご覧いただき、原爆を振り返るとともに現在の福島の問題を考えるきっかけとなれば幸いである。
所蔵資料の閲覧等利用についは、下記連絡先まで、まずお問い合わせ下さい。